中之島へとかかる橋をわたるずっと前から、中之島美術館の向こうのタワービルに見慣れない装飾がついているのがわかり続けた。大阪万博関連のプロモーションだろう。壁面に並ぶ窓をいくつかまとめて四角く囲う。赤く、青く、白く。やがてミャクミャクの描かれた垂れ幕の関西電力という文字が目に入ってきて、関電ビルディングであることがわかった。私が通りかかる時はいつも通りに向かって原発反対デモが行われている。今日も車椅子に乗った人と、旗を持つ人が黙って立っていた。
17時、国立国際美術館着。250円払ってコレクション展の夜間料金チケットを渡される。チケットにあしらわれている国立国際美術館の外観がちゃんと夜になっている。とっておこうかなというくらいきれい。「彼女の肖像」は2度目。前回はモニターに不具合があった映像作品、饒加恩(ジャオ・チアエン)「レム睡眠」を堪能するのが目的。インドネシア、フィリピン等から台湾へ出稼ぎに来ている女性らの見る夢について。インタビュー映像の再生の仕方に工夫があって、3面のモニターに1人ずつ。1人が話している時、他の2人は目を閉じて寝ている。自室のベッドで、リビングのソファで、職場のバックヤードのような所で。かわるがわる目を覚まし、話して、また眠る。1セット終わったモニタから順に別の女性の映像に変わっていく。やがて見覚えのある女性が登場して、私は1度目の鑑賞でこの人のことが強く印象に残った。目を閉じた(おそらく寝たふりの)寝顔はどこかCoccoに似ている。開けるとそうでもなくて、夢の舞台である海辺の情景を話しているうちに表情が苦しそうに歪んでくる。母国に子と残してきた夫が知らない女性と歩いている!夢とは思えないと涙を流す姿に、もう一度胸をうたれる。夢なのにこんなにつらそうなのは、離れたところに住んでいるせいもあるだろう。
久保田成子「私のお父さん」は3度目。個展の時はスピーカーから古いヨレヨレの音声が流れ続けていて、展示室が紅白歌合戦の流れる昭和の居間の雰囲気で満たされていた。このコレクション展では、音声はヘッドフォンを通される。もう知ってるからいいかなと通り過ぎかけて、気になってヘッドフォンを手にとって装着する。年の瀬に見られてよかった。居間のブラウン管の向こうでは蛍の光の大合唱。お父さんは夢うつつ。カメラが顔にズームして、眠っているのかと思うとふっと目が開く。「もう終わったんだよ!あーあ!」と
ぶっきらぼうな成子の声がする。それまでの歌うまいね、等の何気ない声かけの調子から、これが成子の通常運転であることがわかる。
18時過ぎ、calo着。八島良子「メメント・モモ」出版記念展。モモは三元豚の名前。「豚を育て、屠畜して、食べて、それから」というのが本の副題になっている。屠畜許可証に始まり、小さいポイントの文字がぎちぎちに並んだ書類が壁に何枚も何枚も貼られている。モモの油でできたろうそくにマッチで火を灯し、息をふきかけて消すと豚の油の香ばしい匂いがギャラリーの一角に漂った。展示の一番始めに鑑賞したこともあり、おいしそう!とはしゃいだ気持ちになったことを数分後気まずく感じることとなる。平台の端にゴロンと置かれた思いのほか大きな蹄の模型、壁にはモモと海に入る作者の姿。かつてモモだった、切り身や内臓が白いタイル上に整然と並んでいるかのような展示は圧巻だった。Iさんに今年もお世話になりましたと挨拶。儀礼嫌いなのでこういった挨拶はしなかったり、忘れることが多いのだがIさんは12月初旬に行った年でも「よいお年を…かな?」と漏れなくご挨拶くださるのでこちらの意識が育った。そういえば今日職場をあとにする時も、ちょっと迷って大きめの声で「お疲れ様でした!」とだけ言うと一番嫌いなジジイが「よいお年を」と返してくれた。いつも無視なのにそんな事されても戸惑う。普段から仕事しやすいほうが大事だろうが。節目をまず大事にするジジイであることだ。
百瀬文「なめらかな人」
冒頭の、下腹部に剃刀をすべらせて作者がなめらかな人になっていく描写に胸をつかまれて手にとった本。例えば作者やエッセイに登場する人物の考えに共感できなくても、ぐぐっと引きよせられるようなパワーがある。パートナーの男性がスカートを手にした顛末を書いた一編より。
「それを男性が来ても違和感がないということと、その男性 本人が何を着たいのかということは本質的には関係がない。これは男性が穿いてもいいものですよ 、という通行手形は、そこを通る誰のためのものなのか 。」