梯久美子『この父ありて』
石垣りんが晩年、高架と同じ高さの部屋にひとり住んでいて、部屋から走る電車の中を眺めていたエピソード。同じようなことをしているので余計にぐっとくる。
山本容子『本の話 絵の話』
『如月小春のフィールドノート』
タイトルしか書いていない潔い装丁。
田部井淳子編『エヴェレストの女たち』
世界各地の女性登山家が、エベレスト登頂を通じて親交を深める様子もおさめられている。登頂後に下山できずに亡くなったり、その後の登山家人生の途中で別の山で亡くなる人も多い。どう死ぬかを常に意識して日々を送るとはどういう感覚なのだろう。
長島有里枝『テント日記/「縫うこと、着ること、語ること。」日記』
もやしのしまい忘れを謝ってもらえなくて揉める日の日記が強烈に心に残った。関係ない専門家(テレビで見た栄養士)の言葉を持ち出して冷凍保存の正しさを主張してくる母親。なんと既視感のある嫌さだ。後半、神戸で制作した期間に様々な知り合いと様々な店で外食する日々の日記は飛ばし読みしてしまった。自分もそういう日記を書くのに。植本一子の日記本を読む時も、家の外で遊んでいるところでは目が滑った。
パメラ・バトラー『女性の自己表現術』
『私達にはことばが必要だ』もそうだったが、実例がこんなに使えるとは。国も時代も違うのに。訴えに対し「よく考えなおすように」という上司は「びっくりしてしまったので、返答を用意する時間を確保しようとしている」。
『なぜ私は凍り付いたのか』
ショックな出来事に対する「凍りつき現象」が解明されつつある今、性犯罪捜査の場面を考える。反抗しないことが同意とみなされる、性犯罪があったことを被害者が証明しなければならないという現状。加害者が性犯罪がなかったことを証明すべきという指摘。つらい内容だが、現状を変えようと執筆、対談を重ねるところを目にしていると前向きな気持ちになる。
●図書館の本を汚す
カウンターで返却手続きをとっていると、司書さんの手が止まった。「これ…」と差し出された本の天、地、側面のページに迷彩柄のように薄い茶色の染みが広がっている。「それ、どっちかなと思ってたんですよね」と言って初めて、黙って返そうとしていた自分と向き合う。こんな染みあったかな、と思ったならそれはやはり、借りた時にはなかったということなのだ。身に覚えがなく、濡れた形跡がなかったとしても、自分から言い出すべきだった。恥ずかしい。同じものを買って持参するように指示を受けてカウンターをあとにした。本棚を見るが、何も手に取る気になれない。図書館を出て、天満橋の京阪モールの本屋へ行ってみる。ここで買えればまた図書館に戻って今日中に精算できる。早く精算したいというこの気持ちに従ってもいいのか迷いながら店頭の端末で在庫検索すると、あった。本屋の中を人気がなくなる端まで歩いて、「トラウマ」の棚を探した。専門書も充実した、こんなに大きな店舗だったのか。レジで袋も買う。もうリュックには入れられない。また図書館へ戻るとカウンターには先程の司書さんがいて「買ってきました!」と声をかける。今思うと言葉選びも口調(!)も不適切だった気がしてならない。手続きが終わり、「これでまた借りていただけるようになりました」と説明される。本屋に行く前、結果的には動揺して選べなかった訳だが借りる本を探して棚の間を歩いていた。自分のしでかした事を小さく捉えてしまっていたのに気づいてまた恥ずかしくなる。これは書いている今気づいたことだが、絶版本は買って精算することができないのだ。また恥ずかしくなる。
●祖母が亡くなる
6月の終わりの土曜の夜。一日ぶりくらいにLINEを開くと母親からのメッセージや着信がたまっていた。介護施設で暮らす母方の祖母が誤飲性肺炎にかかり、意識レベルが低い。私が見ていない間に小康状態になり、両親は病院から家に戻っている。電話をかけて、私が実家に戻ってまた病院に行く必要があるときに備えようか、と提案するとオケの練習を休んでいいのかと言われる。いいので話を進めようとすると、実は明日妹の産んだ子のお披露目会だという。そして妹には「産後すぐだしショックを与えたくないから」言っていないらしい。この時「命のこと、とか…」と母親が言ったのが気になっている。何が気になるのか書いていて気づいた。やはり形式はどうあれ日記は書いたほうがいいらしい。これからもこんな風に、私にとってはトンチンカンと感じられる思考の末に何か言われたり伏せられたりするんだろう。何かあったら連絡するから、明日練習に行くか行かないかは自分で決めてね、で電話は終わった。まだ練習のことを言っている。日曜朝、オケに欠席連絡を入れる。洗濯をする。近所のスーパーへ行って大量に買い物をし、作り置きをする。ニトリで買ったきゅうりスライサーを使ってみた。きゅうりの径サイズのものが出ているのを知らなかったがこれは便利。受け部分なしで使えるし、よく切れるし速い。速すぎて勢いが止まらず親指の表面をスライスしてしまった。もう何枚かいけるだろうと思ったが、無理だった。メンソレータムをごってり塗り、油分が血を弾いているのを眺めながら、いつ使い始めても必ずこの失敗をしただろうという妙な納得感があった。自分の鈍臭さの限界がここ。それなら、一週間のなかで楽器を弾く予定から一番遠い今日、使い始めてよかったなと思った。
14時。普段の私からは考えられないくらい頻繁にLINEを見ていたのに、お披露目会を抜けた両親と合流し損なう。会の面々には普通に事情を説明してきたという。妹は体調が万全ではないので病院には行かない。特に変化はないが車で病院へ行くという。家を出て最寄り駅まで歩いていると、認知症を発症する前に最後に会った時のことを思い出して涙が出た。別れ際にぎゅっと手を握って、「初孫だから特別」と言ってくれたのだった。妹と、あと2人のいとこには別の特別をきっと伝えていると確信できる。そんなタイミングと言い方、そしてそれまでの孫達への接し方だった。昭和40年代に未亡人になった祖母。どんな気持ちでやってきたのだろう。病院につくと、遅いと心配して駅へ向かった父親と入れ違いになっていた。今日に限らずたまに会おうとすると高確率でこうなる。病室へ入ろうとすると看護師さんとすれ違い、微笑みかけられてびっくりする。ケアワークとはどういうものなのか、一端に触れた気がした。祖母の胸は人工呼吸器で大きく波打っていて、しかしこれが小康状態なのだった。叔父が「遠いところをごめんね」と言う。昨日から両親がそればかり言うのできっと言うだろうと思ったし、少なくとも叔父は10年以上会っていないので他に何も言うことはないだろうと理解できるが、そんなことはどうでもいいのに…という虚しさがつのった。母は「目が開いていて乾くから布がかけられているのが、なんかね…」とか、「アイスノンを身体にあててあるけど冷やしすぎだし、手が冷たすぎる」とか私の中ではすんなり折り合いがつけられるようなことを繰り返し残念がった。父親は祖母の足元に立って気配を消していた。ひえひえの祖母の腕をとって泣いていると母も涙ぐみながら、結婚資金として10万円預かっているからありがとうって言ってあげてくれるかな、と言ってきた。正直この状態の人に語りかけると何を言っても嘘くさくなるので気が進まなくて手を握って伝えようとしていたところがあるのだが、病室にふたりにしてもらったので声に出して言ってみた。が、やはり虚しくてよけい悲しくなった。また両親が部屋に戻ってきて、また手が冷たすぎる話をしている。おでこなら温かい、というか発熱しているので熱い。温かいおでこを触ってあげて。と母。これも気が進まず、「人のおでこ触るのはちょっと」と言うと、「嫌?」と縋るような目を向けてくる。父親はずっと棒立ちなのに…。「そんなところ触るような関係性じゃなかったけど、まあいいか」と言いながら手の甲で丸いおでこに触れた。「90前なのに髪もきれいに残って」「肌もきれいからお医者さんが驚いてはったよ」確かに、そうそう、と返しながら、そんなこと全然重要ではない。父親が「最後かもしらへんからよう見とき」と言い、母親が「また来るわな」と祖母のおでこを撫でて部屋を出た。面会は15分なのに1時間も部屋にいた。祖母はその日の夜中3時ごろに息をひきとった。翌朝LINEで知って、微笑みかけてくれた看護師さんが処置をしている様子を想像した。